スタッフのコラム

どちらが正しい?・・裁判こぼれ話 その4 (弁護士 妹尾圭策)

 民事裁判で争いのある事件では、原告側の証人や本人の供述と被告側のそれとが全く食い違うことが、しばしばある。
 いずれが真実かの認定は、裁判官の自由な判断に委ねられている(自由心証主義)が、その判断に迷う場合が稀ではない。

 民事訴訟法の教科書によると、判断に当たっての資料としては、証人(本人)の供述内容はもちろん、供述の態度なども含まれるとされている。
 他方、徳川時代に京都所司代として令名を博した板倉周防守重宗は、人の容貌は一様ではなく、その美醜によって愛憎の情が起こり、それによって偏頗が生じるのは免れ難い人情であるとの理由で、所司代の席と白洲の間に障子を置き、障子越しに訴えを聴いていたという(穗積陳重著「法窓夜話」による。)。
 重宗は、訴えの内容のみに基づいて判断し、訴える者の供述態度、表情等は判断の資料にしなかったことになる。美醜はともかく、他人に好印象を与える人と、そうではない人がいるところ、好印象を与える人の供述が真実であって、悪印象を与える人の供述が虚偽であるとは、必ずしもいえない。外見の印象にとらわれることを排斥した重宗の審理方法にも一理があるというべきであろう。

 私が一審の裁判官として勤務していた当時、次のようなことがあった。
 相対立するA、Bの供述を法廷で聴いていた際、Aの供述が真実であり、Bの供述は虚偽であるとの心証を抱いた。ところが、後日、判決書を起案するに当たって供述調書を読んだ際には、心証が逆転して、Bの供述が真実であると判断せざるを得ず、供述調書を読み返してみても、それは変わらなかった。なお、供述調書の記載に洩れや誤りがあったとは思われない。

 控訴審の裁判官は、供述調書を含む記録を読んで判断し、一審の裁判官が法廷で抱いた心証を知るよしもない。一審の裁判官が法廷での心証に基づいて判決をしても、控訴審で逆転されたのでは、一審勝訴の当事者に糠喜びをさせるだけである。そう考えて、供述調書から得られた心証に基づいて判決をしたが、それでよかったのであろうか。
                                 (弁護士 妹尾圭策)